未熟者の哲学語り

知識ゼロだが「哲学」で幸せになるわ

HSP(過敏感)の筆者が、人・作品・自己啓発についての考察記事を書いていきます。

自分の人格が矛盾していくような感覚を最近よく抱く

 

どうも皆さん、ハイネスです。

 

最近、YouTubeの方で考察系の話をしているので、ブログの方でもう一度書く気力が削がれてしまっている今日この頃です。

基本的にはラジオとして発信する方が、声を出せてストレス発散になるし手間も少ないしで、自分としては楽なんですよね。

 

文章として書くことのメリットといえば、時間を掛けてじっくりと自分の素の部分をさらけ出せることくらいです。

 

ということで、今回は少し自分の私的な話をしてみようかと思います。

 

 

 

今の自分をもう変えたくない

今までブログや動画として発信してきて、ここ1年くらいは考えの大きな変化もなくやってきました。

読んでたり聴いたりしてもらえれば分かると思いますが、色んな分野について話していても根っこの軸の部分は大体同じことを言っているんですよね。

 

だからこそ、自分という人間の考え方への違和感みたいのは、自分にとっては一つもありません。

そうあることが自然だし、逆にそうでなければ間違っているという確信めいた思いさえあります。

 

何と言うか、自分という存在はもう完成されてしまっているのだと。

精神的な意味での成熟度は限りなく高い状態にあるのではないかと思うわけです。

 

それが客観的に見て正しいのであれ、正しくないのであれ、自分の考えがここから大きく変わることはないというか、、、それが変わることに…一抹の不安があります。

 

つまり、変化が怖い

 

昔と比べて「自信があって」「他人の目を気にせず」「現状を変える方法を知っている」状態にせっかくなったのに、その自分が変わってしまうことへの恐怖が拭えません。

何かの拍子でそれらが失われてしまうのではないかと、それらが無くならないことを毎日祈っています。

 

なにか些細な拍子で自分の考え方の間違いみたいなものを他人から指摘されて、その意見に自分が納得してしまったのであれば、自分は無力な一人の人間にまた戻ってしまうのではないかと。

そんな絶妙なバランス感覚の上で、今の自分の精神状態は保たれているような気がしてならないんです。

 

「自分は優れている」という指針

この考え方はどこか危ういのかもしれません。

客観的に見て、自分という人間はどこか一部では優れているかもしれないけど、その他の面では別に優れてはいないわけで、一概に自分が優れていると捉えてしまうという、この考え方が何か欠陥を抱えているだろうことも何となく分かります。

 

でも、なぜか、もう手遅れなほどに、僕は自分の全てを肯定的に捉えてしまうようになってしまいました

自分を認めてあげることにより精神は満たされ、傷つくことを恐れなくなり、一見して成長したような印象を持たれるようになりました。

 

日常で失敗するようなことがあったとしても、他人と比べて劣等感を抱くようなことがあっても、結局のところは自分がすごいという結論になるように意識するようにしています。

自分が落ち込むことを極度に恐れて、考え方一つではどうにもならない時なんかは、甘い娯楽に逃げ込んで、現実から逃避するようにしています。

 

いわゆる、事実の歪曲

 

自分は優れているはずだという信念を抱えながらも、現実では自分の劣等性を残酷にも突きつけられてしまい、その矛盾に耐えるためにも、

「自分の人格 vs 周りからの客観的な評価」というあまりにも苛酷な勝負をし続けるしか選択肢はありません。

 

これには、さすがに心が揺れてきます。

「あれ?自分って間違っているのか?いや、自分は優れているはずだろう…?」

頭がフワフワしてきて、当たり前だと脳に刻まれてる道理が、実は間違っているんじゃないかと意識が傾きながらも、それを認めてしまえば自分はただの自信のない一人の少年へと堕ちてしまいます。

 

そもそも、こんなただの自意識過剰の妄想劇にどれほどの価値があるのでしょうか

 

例えば、はた目から見て“異常”な行動を取っている人に対して、周りの人は「きちんと現実を直視しろよ」と声を掛けてあげるでしょう。

であれば、はた目から見て“正常”な行動を取っているけれども、その本性では“異常”な心理を抱えている人に対して、周りの人は何と声を掛けるのでしょうか。

 

答えは「何も言わない」。

なぜなら、客観的にはその人は何も間違っていないし、あまつさえ前よりも魅力的な人物へと変貌を遂げているのだから。

 

真実なんて必要ないんだろうな

人に生きる意味なんてものがない以上、真実がどうのこうのと御託を並べることにも元から意味なんてないんだと思います。

形式美みたいのに囚われるのが嫌というか、そういうものを考えること自体が非常に面倒くさくなってしまうんですよね。

 

目指す着地点はただ一つ。“幸せ”になること。

幸福という尺度において高い数値が弾き出されるのであれば、そこにたどり着くまでの方法は一切問いません。

 

つまるところ、僕は考えるのが好きなのではなくて、ただ部屋から極力出たくないだけであり、ベッドの上で悶々と考えるだけで一日を過ごしていたいんだけれども、それをするにはあまりにも社会が許容してくれない訳で、その妥協点を探す営みの上で、他者を屈服させる力というものはどうしても必要になって、その利己的な怠惰な自分を許容するための方法として、日々色んなことを深く考えているわけです。

 

それで、自分の人格が矛盾するような感覚を抱くということは、それだけ劣等性を感じる場面が多いということで、それを放置するなんてことは神経症な自分には到底できないみたいです。

 

「違うんだよ。本当の俺はそうじゃないんだよ。だって、優れているはずなんだから。」

何度自分にこう語りかけたことか…。

 

これが自分の人生な訳ですけど、何だかどうにも他人事のようにしか感じられないので、もうこれでいいんじゃないんですかね。

だって、そうしていないと、人生がつまらないんだから。

 

 

 

 

というところで、今回は以上。

 

それでは、また。