未熟者の哲学語り

知識ゼロだが「哲学」で幸せになるわ

HSP(過敏感)の筆者が、人・作品・自己啓発についての考察記事を書いていきます。

自分でないキャラクターを演じるということの意味【HSP】

 

どうも、ハイネスです。

 

今回は、自分を偽るか否かという話をしていきたいと思います。

 

というのも、この世界に生きる人たちは、意外にも自分を偽ることに抵抗がある人が多いようです。

「素の自分を出さないでいると、つまらないし楽しくない」という話を、ここ一か月である二人の知人からそれぞれ熱心に語られる機会がありました。

 

それに対して、“良い”とも“悪い”とも、別に何も感じなかったのですが、

 

ただただ、自分とは違う考えをしているな、とだけ思いました。

 

 

 

コミュニケーションとは何か

そもそも、人は何のために他人と意思疎通を図ろうとするのでしょうか。

 

自分の場合、コミュニケーションの定義とは、目の前の相手を良い気分にさせ、自分に対して好印象を持たせることです。

 

相手が喜び、相手が楽み、相手に決して不快な思いはさせない。そうして、相手にとことん配慮した会話を心掛ける。

そこに、自分が楽しむという感情は、ほとんど介在していません。

 

おそらく、これには大きく分けて以下の2つの理由が関係してると思います。

  • そもそも他人と話すことがストレス(感覚過敏)
  • 自分の一言で他人が変化することへの興奮(低い自尊心)

 

つまり、これは一種の遊戯です。

最小限の労力で、目の前の相手をどれだけ満足させることができるか、というゲームになります。

 

相手のことを知りたいというこの欲求は、相手をいかようにすれば支配できるのか知りたいという欲求です。

相手のことに気を遣うがあまり、敏感な人間とは一種のサイコパスになり果ててしまっています。

 

「僕がどう行動すれば、君は満足するのか?」

僕が知りたいことはそれだけなんです。

 

人脈とはコレクションだ

コミュニケーションにおいて、人はどこに喜びを感じているのでしょうか。

 

自分の場合、目の前の相手が、自分のために時間を消費しているという"事実"に興奮してしまいます

 

この今自分が見ている人間は、自分という存在のために少なからず労力を掛けてくれている。

その瞬間に初めて、自分が生きていて、他人の人生に干渉できていることを、肌で感じとることができるのです。

 

人脈が増えれば増えるほど、自分は他人から認知されていき、「本当に生きてるんだ」って実感に、幸福感で包まれていきます。

 

でも、その認知は歪んでいます。

なぜなら、その相手の連絡先、あるいは一度話したという事実を手に入れた時点で、相手に対する興味が失せてしまうからです。

 

対象の支配という経験により、コミュニケーションという行為は終了します。

 

意志疎通それ自体に価値が見い出せないというのは、やはりそれで問題なのでしょうね。

 

演じるとは進化であるはずだ

他人とのコミュニケーションにおいて、自分を偽ることを嫌う人たちの主張はこうです。

「無理して自分を変えても、相手との会話を楽しめない。苦しいだけ。」

 

そういう意見があるということも、もちろん分かります。

ただ、相手との関係が表面的であるのであれば、それがその場しのぎの関係であるのであれば、

 

自分を偽り、キャラクターを演じ分け、使う言葉を吟味することは、紛れもない自己の進化と言えるでしょう。

 

より少ない言葉数で、より小さな労力で相手の心を掴めたのなら、それは自らが人として成長しているということです。

そして、それは対象を自分だけの力で支配しているという自己効力感に繋がり、自己の優位性を感じさせてくれます。

 

「君の心を手に入れるのが容易いのであれば、君という存在の価値は低いということになる。」

 

 

皆のことをよく知り、皆をコントロールする方法をよく知ることで初めて、皆と対等な目線で話してもいいんだと胸を張っていることができます。

こんなにもか弱い心で、どうやって人として生きていけばいいんでしょう。

 

 

それは、もちろん、自分という存在の素晴らしさを何度も確認することでしか担保されないに決まっています。

 

 

 

 

ということで、今回は以上。

 

それでは、また。