未熟者の哲学語り

知識ゼロだが「哲学」で幸せになるわ

人、作品、自己啓発についての考察記事を書いていきます。ただし、メインコンテンツは筆者の「自己肯定論」です。

自分への否定を否定するという生き方

 

全ての人は常に、他人からの批判にさらされている。

 

「〇〇する奴はバカだ」

「〇〇した方が良いに決まってる」

 

ネットやテレビを少しでも見ていれば、こういう批判の対象に該当したことが一度はあるはずだ。

 

で、問題なのは、こうした意見にどう反応するのが正解なのかという話。

 

他人の意見に屈するのはもちろん論外。

 

僕が選ぶのは、自分に向けられた否定的意見全てを否定して、自身を全て肯定させるという生き方だ。

 

否定してきた相手の心をへし折り、再起不能になるまで叩き込む少し手荒い方法でもある。

 

 

 

自身の"全て"を肯定して生きる

僕が推し進める「自分への否定を否定して、自分を肯定する」という生き方は、そこら辺の自己啓発論とは一線を画す。

 

なぜなら、文字通り自分の過去現在の行動"全て"を肯定する生き方だからだ。

 

"できるだけ" ではない。

 

"全て" だ。

 

自分が今まで積み上げてきた成功はもちろんのこと、過去に犯した罪も含めて"全て"を肯定していく。

 

極論を言ってしまえば、仮に何か重大な犯罪を犯して刑務所に入れられたとして、僕は獄中でこう考えるだろう。

 

「大罪を犯してしまった僕は本当におかしいのか?」

 

「果たして情状酌量の余地は無かったのだろうか?本当に責められるべきは誰なのか?」

 

自分がこう考えることは容易に想像がつくし、おそらくそうなるだろう。

 

自分が主眼となって、自分を否定するものを全て否定していく

これは驚くほどに"自分"にフォーカスしている考え方だ。

 

だって、見知らぬ他人が何か犯罪を犯してても「とっとと捕まれ」としか思わないし、「こんなアホなことするなんて頭悪いなあ」とさえ思うかもしれないから。

 

自分以外の他人を肯定してあげることはあまりしない。

 

だが、こと"自分"にヘイトが向かった場合は全力で否定しにいく。 

 

これが21年間生きてきた僕の編み出した、精神衛生を高く保ちながら生きられる方法なんだ。

 

僕を否定するのが不可能な理由

自分への否定的意見を"全て"否定すると言っても、そんなこと本当に可能なのかと疑う人もいるだろう。

 

だが、はっきり言って、僕への否定を否定することに何の難しさも無い。

つまり、僕を否定することは不可能だ

 

誰であろうと、何があろうと、絶対に不可能。

僕という個人を否定することは何者にもできない。

 

より分かりやすくするために、いくつかの例を出して考えてみよう。

 

1+1=3

仮に僕が間違えて「1+1=3」と言ったとしよう。

 

しかも酷いことに、その日は一日中「1+1=3」という考えを曲げようとはしない。

誰に注意されても聞く耳を持たず、あまつさえ周りの人をバカにまでし始める。

 

そして、翌日になりようやく「1+1=3」が間違いであったことに気づく。

本当は「1+1=2」だった………どうしよう、間違えてたよ!!!

 

でも、こんなありえないミスをした僕を否定するのも不可能なのだ

 

僕の言い分は次のようになる。

 

「『君は昨日間違っていた』と言って、僕を否定するのか。なるほど。

だが、本当に僕は間違っていたのかな?

確かに、僕は『1+1=3』と言うミスを犯した。

紛れもなく真実は『1+1=2』だよ。

でも、それは本質的な過失ではなく、僕の"記憶の混乱"と"意見の頑固さ"の結果でしかない。

『1+1=2』という純然たる事実の指摘を少しでも逸脱した時点で、その否定は僕への人格否定へと変わるんだぞ?

単なる事実の報告で終わらない以上、君は僕の人格ないし行動を否定し始めるわけだ。

だが果たして、昨日時点での僕の行為を否定することはできるだろうか?

僕は意図的でなく無意識的に過失をしてしまっている。

ある意味、予期しない"混乱状態"に陥れられて、そのまま行動したに過ぎないのだ。

君はこの不可避な過失を逃れることができるのか?

一度迷い込んでしまえば、誰にも抜け出すことはできないだろう。

そうなると、そもそもの僕の能力不足を指摘されるのか?

『お前がバカだからそんなミスする状態になったんだ』と。

だが本当に僕は"バカ"なのだろうか?

君はこの一度のミスを皮切りに僕をバカだと認定するんだな。

ならば、君が僕の人格否定をする行為の方がよっぽどバカな行動になるではないか。

君は自己矛盾に到っていることに気づいていないのか。

なになに、『俺のバカさとお前のバカさは関係がない』って?

それは本当か?

バカなお前の評価する『僕のバカさ』に価値はないだろう。

そもそもバカの定義も定かでない君と討論する価値はあるのか?

………(以下略)

 

という感じ。

 

長くなり過ぎたので、例示は一つだけでいいや。

 

この否定への否定文の解説を次にしていく。

 

永遠に否定し返される覚悟はあるか?

他人を否定をするということは、自分が否定される覚悟もあるということだ。

 

ならば僕は否定する。

君の全てを。

 

君が否定を取り下げるまで永遠に。

 

 

…というのは半分は冗談だが、半分は本気だ。

 

相手に対して否定という名のクエスチョンを永遠に投げつけ続ける。

一つ発言をされるごとに「???」

二つ目には「?????????」

それでも、めげなければ「???????????????」

 

つまるところ、一人の人間を否定するには幾千もの時間を費やし全ての反論への対策を立てなければならない

 

そんなのは土台不可能。

 

したがって、ある対象を否定することはできないのだ。

 

主観でどーにでも反論できるわ

正直言って、その人が間違っているかどうかは主観の問題でしかない

 

「〇〇な奴はバカだ」と言われても、

「〇〇な奴はバカじゃない」と言ってしまえば、それで反論は終わり。

 

今自分が理があると思って行動している以上、その主観を押しのけて否定するのは不可能なんだ。

ある程度の自尊心が備わっていれば、たいていの否定など寄せ付ける隙も無い。

 

否定できるのはせいぜい数学などの"事実"だけ。

 

でも単なる事実の否定それだけでは、人の心情が逆なでられることはない。

「事実を否定」することはできても、「間違えた事実を言った"人"を否定」することはできないのだ。

 

誰一人として一個人の精神を汚すことはできないし、主観の部分まで犯すことはほぼ不可能なことだ。

 

最後に

僕自身、この自分への否定を真っ向から否定していく考え方をしているおかげで、かなり幸せに生きていくことができてると実感している。

 

必要なのはそう、考え続ける意志だけだ。

 

誰であろうと、考え続ける人間を否定することはできないのだから。

 

 

 

ってところで、記事を締める。

 

それでは、また。