未熟者の哲学語り

知識ゼロだが「哲学」で幸せになるわ

HSP(過敏感)の筆者が、人・作品・自己啓発についての考察記事を書いていきます。

僕は「高度な共感性」に呪われている。

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この世界には、「高度な共感性」を有する人間がいくらか存在している。

 

彼らは、他人が嫌がるようなことはせず、他人が喜ぶようなことを積極的に行う。

高い共感能力を持つがゆえに、他人と自分の抱く感情が同化してしまっている。

 

ある意味で言うと、自分の感情が、その他全ての人間の感情とリンクしているのだ。

 

「目の前にいる人が苦しめば、自分も苦しくなってくる。」

「目の前にいる人が喜べば、自分も嬉しくなってくる。」

 

一見、素晴らしい才能のようにも見えるかもしれない。

 

だが、当事者の僕からすると、これは明らかに狂気だ。

 

高い共感性の下に晒されると、どんな人間であろうと堪らず狂ってしまう。

 

なぜなら、それはもう、正常な人間などではないのだから…

 

 

 

例えば、道端のアリに共感したのなら…

分かりやすい例を出そう。

 

例えば、道端のアリに共感したのなら、君は正気でいられるだろうか?

 

君が何気ない一歩を踏み出すことにより、踏まれたアリたちは死ぬほどの苦しみを味わう。

人間にとっては何気ない所作だったとしても、アリにとっては凄まじいほどの苦痛となりうる。

 

毎日、毎日、無数に点在するアリへの配慮に頭を悩ませていれば、誰であろうといずれは狂ってしまう。

 

「もう、ダメだ。僕はアリを潰す。僕はアリの人生を踏みにじって、生きていく。」

 

奇しくもアリに共感してしまった人間が、精神を正常に保ちながら生きていくためには、この残酷な答えを出すしかないだろう。

 

共感するということは、つまり、その赤の他人の人生を自らが背負うことと同じなのだから。

 

全人類に共感することの狂気

アリに共感する人間なんてものは、いるはずがない。

 

だが、事実、全人類に共感してしまう人間というのは存在する

 

これは、狂気だ。

 

自分の存在と、その他全ての人々の存在との境界が、あいまいで薄れてしまっている。

そして、自分一人を幸せにするためには、その他の75億人の幸せを奪わなくてはならない。

 

単純に合理的な話として、たった1人の人間の幸せと、75億人の人間の幸せ、どちらの方が価値があるだろうか?

 

答えは簡単だ。

 

正常な思考力を持った人間であれば、自分の存在を犠牲にすることにより、人類全体の幸せを追求しようと考える

 

これこそが、僕の背負っている呪い。

 

僕が今まで自信を得ることができなかった理由。

 

おそらく、僕が幸せになる権利を得るには、主観として、僕が僕以外の全ての人間の幸せになる権利を踏みにじる必要があるのだろう。

 

だから、僕は圧倒的な自信を欲している

 

普通な人にとっては異常に見えるほどの自信がなければ、ちっぽけな一人の青年が75億人を踏みにじって自分らしく生きていくことなどできない。

 

アリに共感してしまったのであれば、やはり、そのアリを踏み潰す覚悟を持たなければならない。

 

自信がないということは、僕という個人が存在していないことと同じなんだ。

自信があることによって初めて、僕はその他大勢から抜け出し存在を得ることができる。

 

人類という枠組みの中の歯車として終わるのか、それとも、自分という一個人として幸せを掴み取って生涯を終えるのか。

そういう話だと思う。

 

自分で自分に納得できた気がする

今回書いたことは、僕という人間を語るうえでの一つの真実だと思う。

 

  • 他人に共感するあまり、自分一人に価値を見出せない
  • そして、その呪いに抗うために、圧倒的な自信を欲する

 

なるほどなあ、と自分でも思ってしまった。笑

 

そして、この記事を書いたことにより、「僕が自信を求める」のは正常なことだと証明されて、僕はまた一歩幸せに近づいた訳だ。

 

これだから、ブログは辞められないんだよなあ…。

 

 

というところで、今回は以上。

 

割と、気分よく書けたので良かったです。

それでは、また。