どうも、ハイネスです。
DaiGoさんの放送の内容を実生活に落とし込むことで、久しぶりに完全無欠の持論を構築することができました。
それは、「最も飢えた人間こそが最も幸せな人生を送れる」という持論です。
これを強く意識できれば、たとえ自分が他人より劣っていたり、趣味に充てる時間が足りていなくても、その"不十分さ"を受け入れて逆にそれを幸福感へと変換できるようになります。
ということでいつも通りに解説していきます。
"渇望"こそが人生を充実させる
多くの人が間違って捉えていることが一つあります。
それは、多くを稼いで、多くの富を得た方が幸せになれるという認識です。
確かに、人間の直感的にはこの感覚は正しいです。
ただ、実際に多くの富を得た人がその分幸せになっているかと聞かれれば、そうではありません。
「一生楽しいことだけして生きていきたい」
「大金持ちになって湯水のように金を使ってみたい」
こんなことを夢見ていても、実際になってしまえば満足感はそうは得られないです。
なぜなら、人は富めれば富めるほど、些細な事に幸せを感じ取れなくなっていくからです。
例えば、年収十億円の人にとっては一万円なんて紙切れ同然でしょう。
毎日高い値段のする外食ばかりしている人は、美味しいものを食べてもさほど感動することもできないです。
一日3食の人にとっての食事よりも、一日1食の人にとっての食事の方が何倍も喜びが大きいことは想像に難くないです。
飢えれば飢えるほどに、喜びというのは指数関数的に膨張していきます。
つまり、人生の中で最も渇望できた人こそが最も幸せに生きることができるわけです。
自分が幸せに生きられるかどうかは主観の問題でしかありません。
他人から見て"不足"している人生でも、自分から見て"渇望"している人生であればそれでいいのです。
何気ない日常が色鮮やかになる
日頃から渇望を感じるように意識していると、何気ない日常をより色鮮やかに感じることができるようになります。
例えば、アニメ鑑賞を例に挙げてみます。
一日で全12話を一気に見る人は、おそらくOPとEDなんかはすっ飛ばして詰め込むように見漁るでしょう。
こうした全てを与えられた"渇望感"のない人たちは、結局見終わった後も大した満足感を得ることはできません。
反面、一日に1話ずつしか見ない人は、一分一分の映像を集中して視聴して最後のEDも名残惜しそうにきちんと見るでしょう。
こうして"渇望感"を抱き続けている人たちは、ただ漠然と見ている人よりも多くのことを感じ、アニメ自体により大きな価値を感じることができます。
暮らしの中のあらゆる行為に対して"渇望感"を抱くようにすることで、何気ない日常をより色鮮やかに感じられるようになります。
「人生が毎日つまらない」
「何事もくだらなく感じてしまう」
なんて思う人たちには圧倒的に渇望感が足りていません。
「全てが与えられている」
「好きな時にいつでも娯楽に逃げれる」
こんな状況、毎日毎日動かずただ飼い主から餌を与えられるだけの家畜と何の違いがあるのでしょうか。
人間としての幸せを感じたいのなら、しっかりと自分を自制して常に"渇望感"を抱くようにするべきです。
渇望の伴わない幸せなんて儚いもので、最初は満足できてもその後すぐに慣れが来て一瞬で風化していきます。
勤勉さがご褒美に変わる
この渇望するという考え方にはさらに素晴らしい点があります。
それは、勉強や仕事といったやらなければいけない辛いことを、楽しんでできるようになることです。
普通の人であれば、辛いことは辛いこと、楽しいことは楽しいこと、と苦楽を別々に考えます。
「仕事は辛いけど終わらせなけばいけない。その後に、楽しいゲームをしよう」などと考えるでしょう。
でも、その考え方は微妙に間違っています。
辛いことと楽しいことは表裏一体であり、楽しいことをお預けにして(渇望をためて)辛いことを頑張れば頑張るほど、楽しいことへの喜びが大きくなっていくのです。
「勤勉さは短い時間の楽しみを何倍にも膨れ上がらせる。
ずっと遊んでばっかの奴らよりもトータルで幸せになれる」
と考えることで、もはや勤勉さは辛いことではなくなります。
だって、"怠けてばかりの人"よりも"楽しみを凝縮してる人"の方が幸せになれるのですから。
これを口語でテンション高く書くとこんな感じです。
「ああ、やべえ。俺の渇望感がエグいくらいに溜まってきてるなぁ…
俺は1時間後に最高の気持ちよさを味わうために、今飢えている最中なんだ。
飢えろ、飢えろ、もっと飢えろ。
気持ちいいことに恋焦がれるほどに、気持ちよさは倍増していくんだッ」
ていう感じに気持ちよくなりましょう。
とまあ、こんなところで今深夜で飢えてる筆者がお送りしました。
それでは、また。