未熟者の哲学語り

知識ゼロだが「哲学」で幸せになるわ

考える。ただ、考える。

僕は生涯を通して、ずっと"考え"続けてきた

 

哲学といえば、難しい言葉や表現を使っていて分かりにくい印象が強い。

 

もはや哲学者たちは意図的に分かりづらくしてるまである。

 

そして、僕はそういう哲学の"分かりにくさ"が好きじゃない。

 

専門として職業として哲学を学んでいるならまだしも、趣味でやってる身としてはそこまで時間や労力を割くことができないからだ。

 

しかも、苦労して一冊の哲学書を読み終えても、実際に日常で使えるような教訓はそこまで多くない。

 

もっとプラクティカルに短時間で"使える知識"を身に付けたいと思うのは当然のはずだ。

 

 

で、僕の出した答えは「ただ考えるだけで物事の真理にたどり着こう」というもの。

 

本当にただ考えるだけ。

 

何の初期投資も必要ない。

 

人間の機能として当たり前に備わっている考えるという能力さえあれば誰でもできる。

 

そして、「考える」ことで幸せを掴み取ろうと試みる。

 

 

今回は、生涯を通して「考え」続けてきた僕の人生を振り返ることで、何かしらの教訓を探していきたいと思う。

 

「考える」とはどういうことなのか?

その真価はどこにあるのか?

 

そこら辺の疑問に答えを出していく。

 

 

 

考え続けてきた人生

僕は、今まで人一倍「考えて」きたと思う。

 

それがどんな型だったかは知らないが、考えるというスタンスは一度も変わっていない。

 

もしかしたら、「考える」という行為そのものを分類していけば、何かしらの気づきを得られるかもしれない。

 

てことで、年齢ごとの考え方を考察していってみる。

 

小学生中期

僕が暗い性格、よく言えば落ち着いた性格になったのは小学生中期くらいからだ。

 

それまでは割と明るい方で、活発な少年だったと思う(活発でない少年が果たしているのかという疑問はともかく)

 

ヤンチャというよりもインテリ系。

戦隊ヒーローの中ならブルーに割り振られるタイプ。

 

おそらく、この歳辺りから周りと比べて「考える」比率が高くなり始めている

 

この「考えの深さ」を身に付けた結果として、僕の動きはぎこちなくなっている。

思考のスペックを"深さ"に全振りしてしまったがゆえに、普通の生活がままならなくなるのだ。

 

みるみると口数は減っていき、大勢の前で何か発表するのが苦手になった。

さらに、視力も低下してきて裸眼の視力が0.1以下にまで落ち込んだ。

 

陽キャが正義なのだとすれば、僕の人生のピークは8歳ということになる。

 

中学生

中学生になると、この世がこの世でないような異様な感覚に包まれるようになる。

後に分かるが、こうしたモヤモヤ感は僕の持つHSP(敏感症)の性質の一つだ。

 

自己肯定感が全くなかったこともあり、自分の生きる拠り所のようなものが見つけられなかった。

いつも何かにビクビクしていて、どうすればストレス(人付き合い)から逃れられるのかばかり考えていた。

 

人恋しさと人煩わしさのジレンマでひたすらに苦しみ続けた。

 

この時期は、「考え過ぎる」という性質が完全に裏目にしか出ていなかったのだ。

 

「周りの人は自分のことを変な風に思っているのではないか?」

「明日からの学校生活を想像してみると辛いことばかりだ…」

 

毎日毎日マイナスなことばかり考えていた。

 

典型的な自意識過剰の根暗の発想。

 

今の自分からしてみればゴミみたいな人生だ。

 

高校生

正直言って、中学生からの精神的な成長は何一つとしてなかった。

 

常にひたすらボンヤリとした人生を送っていた。

 

生きる目的はただ"辛いことから逃げる"ことだけだ。

 

大勢の聴衆の前に出ることを嫌い、ストレスの溜まる重労働からも逃げる。

将来の成功なんかよりも、将来のほんの少しの不安を取り除きたい気持ちしかなかった。

 

そう、「考え過ぎる」ことで僕の中の負の感情は常人の何倍にも膨れ上がってしまうのだ。

 

辛いことから逃げて逃げて逃げ続ける。

逃げ疲れた果てに残されたのが今の僕の人生だ。

 

大学生

気付いたら大学生になっていた。

 

今振り返ってみると、あんなにも苦しみながらよく中高と乗り切ったなと思う。

 

まあ、幸せか幸せじゃないかなんて相対的にしか分からないから、昔の僕にとっては幸せな一時だったのかもしれない。

今の僕から見ると、不幸せなわけだが。

 

なぜなら、気づいてしまったから。

 

「考える」ことの素晴らしさに。

 

僕は「考える」ことの真価と「考えてる僕」という存在に気付いてしまった。

 

今まで無意識に行ってきた「考える」という作業の価値に気付いてしまったのだ。

嫌悪、憎悪の対象でしかなかったこのナヨナヨしい「考える」という志向が優れたものだと知ってしまった。

 

気付いたら………もう、それで終わりだ。

 

「考える」先には幸せしか待っていないのだから。

 

考える自分を愛す

「考える自分を愛す」という表現は、"今の僕"にとってはとても当たり前のことだ。

そもそもそういう思考をしていなければ、ブログなんて立ち上げようとは思わない。

 

でも、

"昔の僕"には「考える自分を愛す」なんてことは理解できないだろうし、絶対に思いつくことすらできなかっただろう。

昔の僕にとって、「考え過ぎる」ということはネガティブな要素(根暗、自信ない)にしか繋がらず、天地がひっくり返ってもポジティブには考えられなかったから。

 

今まで苦痛だった「考える」ことが、喜びに変わっていく。

こんな素晴らしい事ってないだろう。

 

それこそ人生が180°転回するような革命だ。

この喜びを享受しなくて何をする。

 

そりゃ、水を得た魚のように色々と考えてみたくもなるさ。

考えた分だけ幸せになっていくんだから。

 

考える自分を愛すっていう事は本当に幸せなことなんだ。

 

今まで「考えてきた」人たちは、社会では蔑ろにされる存在だから。

辛い部分が多かったから。

 

だから、僕は幸せになろうとする。

 

取り返すために。

今まで失ってきたものと、これから失ってしまいそうなものを。

 

 

 

 

てところで、そろそろ終わりにする。

 

反撃の狼煙はこれからだ!

 

それでは、また。

 

 

 

※こういうポエミーな文章ほんとに苦手だわ……笑

 

上げるか一瞬悩んだけど、やっぱ上げるッ