未熟者の哲学語り

知識ゼロだが「哲学」で幸せになるわ

人、作品、自己啓発についての考察記事を書いていきます。ただし、メインコンテンツは筆者の「自己肯定論」です。

根暗な人間でも「自己肯定」できることを、3つの例示から証明する

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僕の好きな分野の一つに、自己啓発というものがある。

 

「色んなテクニックを試して、毎日をより良くしていこう!」

「今、世界で活躍している人たちはみんな実践しているよ!」

 

自己啓発とは、こんな感じの甘い言葉をあげつらう行為のことを指している。

 

 

 

その中でも、特に僕が愛してやまないのが自己肯定という分野だ。

 

「自分を受容してあげることで、自信を持って生きていけるようになるぞ!」

「他人からの評価など気にせず、自分を愛してあげようじゃないか!」

 

字面だけ見ると、とってもポジティブで明るい印象を受けられるかもしれない。

 

自分対してなかなか自信を感じられない人の中には、胡散臭いと感じる人もいるかもしれない。

 

ただ、一つだけ言っておく。

 

自己肯定には、福士蒼汰のような爽やかな要素は微塵も無い。

 

もっとドロドロとした、醜い感情が行き交うことによって成立している。

 

自己肯定を後天的に始めている以上、対象とする人たちの本質は"根暗"な人間だ。

 

そんな元々は根暗な人たちがポジティブになろうとしている訳であって、「暗い気持ちだと楽しくないよ。明るい事だけ考えていこうぜ!」なんて短絡的な発言で納得できるはずがないだろう。

 

自分の内の醜い感情を全て吐き出すことによって、自分をしていく。

 

自己肯定には、そんな関係式こそが相応しいと僕は思っている。

 

 

 

 

 

と、抽象的な言葉ばかりを並べていても分かりにくいと思うので、今回の記事の本題に移ろう。

 

今回は、自己肯定が大好きな筆者である僕が、普段どのように考えることによって自分を肯定していっているのか、頭の中で繰り広げられる議論を文字に起こすことで例示していく。

 

具体的に言うと、僕がどん底の最悪の状態にいると仮定して、その僕に対してひたすらに自己肯定をしていってみる

 

 

取り上げるのは以下の3つの例。

  1. 一時の気の迷いで会社の金を横領してしまい、警察に逮捕される
  2. 突然の事故で、身体に深刻な障害を抱える
  3. 転勤先の海外で、他人種の同僚から人種差別される

 

上記のような最悪な状況に自分が陥ってしまったと仮定し、そんな可哀そうな自分を肯定していってあげようと思う。

 

それでは、始めよう。

 

 

(今回は記事には不謹慎な要素があるので、気分を害してしまったら申し訳ない。)

 

 

 

【CASE1】 警察に逮捕される

僕は重大な犯罪を犯した。

 

自分の私腹を肥やすためだけに、会社の金を横領してしまったんだ。

 

こんなことは許されない。

軽蔑されて当然だ。

 

会社中はもちろんだが、近所の住人や友達にまで知れ渡ってしまうかもしれない。

 

僕の社会的な地位はもう完全に終わりだ………。

 

これから他人と深い仲になれることは一生できないのだろう。

 

だって、この事実を知った人で僕を軽蔑しない人なんていないんだから。

 

 

だがな僕がこれから不幸せになるしかないなんて道理はおかしいだろう!!??

 

ひどい過ちを犯してしまった僕にだって幸せになる権利はある。

 

そもそも僕の犯した過ちというのはどれほどまでに大きというのだ。

 

僕には、罪を犯したからといって盲目的に懺悔の気持ちに浸るような純粋な思考をすることはできない。

 

僕があがなうべき謝罪の相手をハッキリとすべきだろう。

 

端的に言うと、僕は会社とその従業員たちに対して謝らなくてはならない。

 

つまり、会社側が僕の謝罪の姿勢を認めて許しくれるならば、僕が心の内で何を考えていようと何の問題も無いわけだ。

 

僕が僕の精神衛生のために心の内で何と思おうと、周りの人には何ら迷惑は掛けることはない。

 

むしろ、心からの謝罪を見せられた相手が苦しみもがき続けていたら、元同僚たちも少しは同情して嫌な気分になってしまうのではないだろうか。

 

それならきちんと改心してから、勝手に幸せにでもなってろという話だ。

 

したがって、僕は他人からは気づかれないように心の中だけで、罪を犯した自分を最高に肯定してあげようと思う

 

こんな罪を犯した人間を肯定してあげられるのは、自分しかいない。

自分が愛してあげなければ、この人格は壊れてしまうだろう。

 

僕は根暗でうがった人間だからこそ、「外向きには反省しつつも、内向きには全て肯定する」という相反する思考を同時にできる能力があるのだ。

 

これはある意味、"根暗"であるからこその能力だ。

 

直感で生きている正常な人間ならば「嬉しい時は嬉しく、悲しい時は悲しい」といった当たり前の感情コントロールしか行うことはできない。

 

僕は根暗であるからこそ、どんな状況下でも幸せになることのできる能力があるのだ。

 

僕には、被害者への謝罪の念を心に残しつつ、同時に自分を肯定してあげることができる。

 

だからこそ、僕は僕のことを「あれは避けられない事だったんだ。気にする必要はないぞ!」とポジティブに慰めることもできてしまう。

 

何なら、「僕の責任なんて"一つ"もない。あれは全て自浄システムの無い会社の責任だ」と断言してしまうことさえ可能だ。

 

たとえ僕がどんな失敗を犯したとしても、僕の精神が犯されることだけは絶対にない。

 

これを相手と自分両方が幸せになれるようにwin-winに熟してしまうのだから、根暗な人間の精神力も侮れないというものだ。

 

 

【CASE2】 重い障害を負う

あれは本当に突然に起きた交通事故だった。

 

僕の脊髄には傷が入り、一生ベッドから立ち上がれない身体になってしまった。

 

僕の人生は一瞬にしてどん底に突き落とされてしまった。

 

まさか身体が動かなくなるなんて、少し前までは想像すらしていなかったことだ。

 

だが、確実に、事実としてもう僕の身体が思い通りに動くようになることはない。

 

これから僕はどんな人生を歩んでいけばいいんだ………。

 

こんな状態のまま幸せになることはできるのだろうか。

 

 

なんだ、こんな不幸は何かおかしいな。なぜ僕はこんな見え透いて不幸な選択肢を掴まされようとしているんだ?????

 

僕たちは人間として生まれて、幸せになるために日々を過ごしてきたはずだろう。

 

それが、なぜ、なぜ不幸にならなければいけないんだ。

 

不幸を内在した人生なんてものを、僕は許容したくない。

 

たとえ今どんな状況にあろうとも、それらを肯定して精神的な幸せを得たいと思うのが当然だ。

 

だから、僕は普通の人に比べて圧倒的に不自由な自分を、徹底的に肯定してあげなくてはならない

 

この不自由さを認めて肯定することにより、普通の人と同じかそれ以上の幸福感を得ることを目指さなければならないんだ。

 

そして、それは、可能だ。

 

どんな不自由さを背負っていても、気持ち次第でいくらでも愉悦を感じることができる。

 

障害というある種の拘束があるからこそ、僕には他者とは異なる超越した感性を手に入れることができている。

 

「この世界の窮屈さ」「人々の弱者への無関心」「人の持つ暖かさと感動」

それらの気付かれにくい感情を拾い上げる能力が、今僕には備わっている。

 

これは詭弁などではない。

本物の価値がそこにはあると確信している。

 

常人ではたどり着けない極致に、僕は今達しているのだ。

 

さらに、僕は一生介護される対象になった訳だが、そこに引け目を感じる必要は一切ない

 

施し、憐み、妬み。負の感情だろうと何だろうと全て受け入れて、今生きられる幸せを享受しようじゃないか。

 

なぜなら、僕を助けてくれる人は「その人の思う最善の行動」をしているだけであって、彼らがしたいことをしているだけに過ぎないのだから。

もちろん、口では感謝の気持ちを伝えはするが、内心では「嫌ならやめてもらっても構わない」くらいの気概でいた方が随分心が楽になる。

 

つまるところ、彼らにとっては僕が生きているだけでそれが価値となるのだ。

 

彼ら自身の内心でどう思っているかは全く関係がない。

僕が主観でどう評価するかだけが重要な問題だ。

 

僕は周りの人間からの評価を自由に変換して作り上げることにより、不自由さでさえ優位性に変えることができる。

 

これを幸せだと言わずに何と言う。

 

 

【CASE3】 人種差別を受ける

会社の人事から海外転勤を言い渡された時には、想像すらできなかった。

 

まさか、海外支店の他人種の同僚から、集団的な人種差別を受けることになるなんて。

 

僕は勤め先の同僚から人種差別を受けている。

こんなものは被害者からすればどうしようもないし、言いがかりに近い卑劣な行為だ。

 

だが、実際、僕は今孤独だ。

 

周りに自分を受け入れてくれる人が誰一人いなくて、寂しさで心が震えている。

 

自分を否定する人間がこんなに多くいるなんて、心が今に挫けてしまいそうだ。

 

これから先、正常な精神を保ったまま働いていけるのだろうか………。

 

 

いや、違う僕が否定される存在だなんてありえないんだから、そんな間違っている君たちを僕は否定してあげなくてはいけない!!!

 

ここで屈してしまったら、僕の栄光の人生への道は閉ざされてしまう。

 

否定する人たちを逆に、余さず否定していかなくてはならない。

 

そうだ、君たちは愚かな存在だ。

 

時代錯誤の人種による差別など、"愚か"以外に何と言えばいいのだ。

 

君たちの存在が社会的に見て異端であり排除されるべき対象であることは、歴史的な事実から考えても明らかだ

 

君たちが間違っている事実など考えるだけ無駄だ。

当たり前のことなのだから。

 

これで多少なりとも僕の精神衛生は保たれるだろう。

 

そして、次に考えるべきことは、どうやって君たちを改心させるか、または排除するかという話についてだ。

 

僕は会社に対して真摯に訴えるぞ。

「僕の同僚たちの心は腐っている。今すぐにこの状況を改善しろ」と。

 

この惨状を変えてもらえなければ、今後一切出社するつもりはない。

 

少しでもおざなりな対応を取るのであれば、こんな会社は喜んで辞めてやろう。

 

戦略として、嬉々として、この地獄から逃げるのだ。

 

僕が主役として僕の人生を生きている以上、この"逃げ"でさえも正史であり正しい選択になる。

 

僕は、辛いことから逃げる自分を肯定する。

 

頑張って辛い思いをし続けてまで、社会的な正義であり続ける必要はないんだから。

 

僕自身が今一番したい行動を取って、自分一人が認めてあげられればそれで十分だ。

 

状況は状況としてあくまで客観的に捉え、そいつを主観的に自由に評価してあげることにこそ"幸せ"がある。

 

全てを肯定することができれば、全ての逆境を乗り越えることができると僕は信じている。

 

 

 根暗な「自己肯定」の本質とは

根暗な人間は、今まで乏しい外交性などが原因で、社会的には価値の低いダメな人間として見られ続けてきた。

自分の惨めさに自己嫌悪を繰り返し、自分に誇りを持つという概念すら理解することができなかった。

 

だが、いつしか、根暗な人間は気づいてしまう。

 

"全ての人間には幸せになる権利がある"という事実に。

 

自分以外の人間は、今まで当たり前のようにその幸せを享受してきたという事実に。

 

すると、次のような怒りと疑問が湧いてくるのも当然のことだ。

 

「なぜ僕はこんなにも不幸で苦しんでいるんだろう?」

 

「僕は幸せになってはいけないのか?」

 

 「今この現状を変えようとしてはいけないのか?」

 

いや、もちろん、幸せになる権利は全ての人間が平等に持ち合わせているのだ

 

僕たちは幸せになっていいんだ。

 

 

 

根暗な人間による自己肯定の本質は、「自分が幸せになれないなんて間違っている」という怒り疑問の感情にある。

 

 

 

長くなってしまったが、ここらで記事を締めたいと思う。

 

5000字近く書くと、さすがに疲れるな。

 

それでは、また。