未熟者の哲学語り

知識ゼロだが「哲学」で幸せになるわ

HSP(過敏感)の筆者が、人・作品・自己啓発についての考察記事を書いていきます。

僕たちは、どこまで他人を蹴落とせばいいのか。どこまで自分を犠牲にすればいいのか【政治の話】

 

分からない。

 

僕たちはどうすれば幸せになれるのだろうか?

 

考えれば考えるほどに、分からなくなってくる。

 

何をすれば、僕たちは幸せになれるのだろうか?

 

そこに答えはあるのだろうか。

 

自分の意見を発するというのは、自分が正しいと思っていなければできないのではないのか?

 

この世界を生きる上で、たった一つの正しい真実というものが果たして存在するのだろうか。

 

ダメだ。僕には無理だ。

 

考えれば考えるほどに、気持ちが悪くなってくる。

 

「自分の意見を表明する」という行為自体を気持ち悪く感じてしまう。

 

「自分は正しいと思い込んでいる」人たちのことを、全くもって理解することができない。

 

考えれば考えるほどに、気味が悪くなってくる。

 

考えれば考えるだけ、自分のことを嫌いになっていく。

 

みんなが幸せになることを願えば願うほど、自分のことが嫌になってくる。

 

そして、そんな人でなしな自分のことがさらに嫌になる。

 

僕は僕のことを嫌いにならなければ、おそらく他人のことを救えないだろうし、僕にはそんな労力をかける能力すら持ち合わせてはいないのだろう。

 

要はめんどくさい。文字通り、"死ぬ"ほどにめんどくさい。

 

一生懸命考えるということは、僕にとって死ぬくらいにめんどくさいことなんだろう。

 

 

僕が死んでしまうという現実が迫ってくるか、あるいは絶対的で全体的な幸せへの道が"簡単"に手に入るのでなければ、僕が変わるということはないだろう。

 

だが、変わらないということは悪だ。とされている。

 

変わらなければ周りの人間から苦しめられ、その苦しみが耐えられないレベルにまで達した時、僕は変わろうとするだろう。

 

つまり、何か意見を発するということは、「意見を発さなければ苦しくて仕方がない」という状況になって初めて発生する事柄なのだと思う。

 

他の人がどうかは分からないが、少なくとも敏感な僕はそういう考えている。

 

僕と同じような性格でいて、現状を変えようとしている方々は、おそらく今相当に苦しんでいるからこそ意見を表明しているのだろう。

 

ただし、自分と異なる性格の人に関しては、その心情を察することはできない。

 

あなたがどれほどに苦しんで今の現状を嘆いているのか、あなたがどれほどの程度まで理解を及ばせて今の現状で満足しているのか。

 

僕はそれが知りたい。

 

あなたの真剣さをとことんまで理解して、僕の能天気さと比較することで僕の愚かさを自覚してみたい。

 

相手の思考の深さや熱量を全て把握し、併せて客観的な事実との整合性を全て把握しないと、僕は何も言うことができない。

 

この恐らく不可能であろう莫大な作業を行った後でないと、意見をする資格はないのではないかと頭に刷り込まれている。

 

一言で言って、自信がない。

僕にはこの手の分野を語る能力がないのだろう。

 

新たな事実一つで全てがひっくり返ってしまうような論争に確固とした意見で飛びこむことは、後から自分の意見の間違いを訂正されるリスクがどうとか以前に、僕自身がやる価値というか魅力を感じることができない。

総合的な意味での無力感を抱いているというのが、答えだ。

 

事実、今のこの社会において「語らない」というのが幸せに繋がり、「気にしない」というのが幸せに直結するだろう。

 

これは社会が良くなるとかどうとかという話ではない。

個人においての気分の話だ。

 

もう。

もう、よく分からなくなってきた。

 

こうした問題について一から考えていくと、最終的には「人とはそもそも何なのか」という話に僕は毎回帰結する。

 

僕はどうしたいのか?

僕はどうなりたいのか?

 

理屈では分かっている。

僕は、この世界の人全員が幸せになれるようにしたいんだ。

 

だが、こんな簡単な理屈を知っているだけでは何の意味もない。

 

考えてみて分かったが、こうした問題は人間の理解の範疇を遥かに超えている。

 

今の人間が「過去の人類史」を愚かだとバカできてしまうことから分かるように、今人間が何を一生懸命考えたところで、集団の幸せを予想することはできない。

過去の統計や普遍的であろう学術的なデータで検証しなければ、正しい想像などできやしない。

 

今あるデータの中で、今思った感情をとりあえずぶつけるしかないのだ。

 

他人の意見を聞いて間違っていると思ったのならば、その意見を発信して自分の好きな世界を作っていこうとしなければいけないのだ。

 

では、今何も感じていない人間がいるとしたら?

 

どうなるのだろうか。

 

僕たちはただの傀儡でしかなくなるのか。

 

幸せな傀儡というのは果たして不幸せなのだろうか。

 

幸せな傀儡が不幸せになりたいと思うことはあるのだろうか。

 

幸せな傀儡が不幸せになりたいと思ったのなら、それは単に、幸せな傀儡が不幸せな傀儡に変わり、他の幸せな何かに戻りたいと思っただけなのだろう。

 

そして、その幸せな何かを夢見る不幸せな傀儡は、他の幸せな傀儡を不幸せな傀儡へと変えていこうとするのだろう。

過半数分の力を持った傀儡が不幸せになった時に初めて、傀儡は傀儡でなくなる。

 

そんなことを傀儡かどうかも分からない人間が考えることに果たして意味はあるのだろうか。

 

分からない。

 

だから、考える。