僕は基本的に、恥ずかしがり屋です。
大勢の前に出るようなことは極力避けたいし、真っ直ぐと相手の目を見て話すのも苦手です。
学校のクラスのような集団にいても、目立つようなことは他人に任せて、ひっそりと一人で観察しているタイプの人間です。
例えば、自分の欠点を他人から指摘されても、もごもごと黙りこくってしまいます。
逆に、自分のことを褒められても、「まあ、ね…。ヘヘッ」くらいにしか返しません。
ただ、僕は、そんな自分が嫌いです。
そんな自分を変えたいと思い、「自己分析」を始めました。
そもそも何が恥ずかしいのか?
これは無意識の内に、僕の頭の中に浮かんできた問いです。
自分の存在が恥ずかしいと感じた僕が無意識にやっていた行為を、今回書き起こしただけです。
どこかの自己啓発本を読んで実践した訳ではありません。
つまり、人は「自分の存在が恥ずかしい」と感じた時、無意識的に自己分析をするのです。
「あああああ、いつもの自分のキャラと違うこと言っちゃった。恥ずかしいいいいいいい」
「やべえええ、あんなこと言わなきゃよかった…。明日顔合わすの、気まずいなぁ」
こうした自己への恥ずかしさが極限まで高まった時、人は次の思考に達します。
「そもそも自分の何が恥ずかしいんだ?結果には必ず"原因"があるはずだ。」
死ぬほど恥ずかしくても、周りに隠れられるような穴はどこにもありません。
ならば、自分で自分を覆い固める堅牢な"城壁"をつくる必要があります。
かくも脆き自己の存在を支えてくる、素晴らしき言い訳を、人は探すのです。
「僕は、自分が恥ずかしく感じた理由を、2時間考え続けた。
もう、この謎は全て解明された。
君が僕の恥ずかしさを指摘するのであれば、逆に、それらの真理を事細かく教えて進ぜよう。」
語りつくされたことを蒸し返すことほど、無意味なことはありません。
僕は、僕の全てを知ることにより、その恥ずかしさを消失させます。
差別のない世界に、恥ずかしさという概念はない
昨今、人種などによる差別を無くそうと、世界各地で声が上げられています。
では、こうした差別が消失すると、何が素晴らしいのか?
それは、人としての存在が担保されることにより、人として行動する全てが許されることにあります。
人の権利を認める上で一番最初に来るのが、「人として存在する権利」です。
存在が否定されることさえなければ、人の自己肯定には無限の可能性が生まれます。
ありのままの人として存在していることが認められている以上、道理として、自分の存在に恥ずかしさを感じることは不可能です。
差別なきこの世に生まれることで、僕らは世界にその存在を担保されています。
僕らを支えてくれるのは自尊心なんかではありません。
この世界にいる70億人全員が、僕ら一人一人の生きる意味を支えてくれているのです。
正に、One for all, All for one.
ただ、人間として生まれてきただけで、僕らは救われています。
ある意味で言うと、一心同体なのかもしれません。
争う事にも何の意味もないのでしょう。
なぜなら、僕の存在が否定されるとは、つまり、あなたの存在が否定されるということなのですから。
この道理にたどり着くために、自己分析する
何のために自己分析するかっていうのは、結局、ここにあるんですよね。
表面的な難しさを取っ払って(自己分析)、一人の人格と人格の勝負に持ち込む。
こうして、素の人格勝負に持ち込むことができたなら、その先は、誰も傷つかなくて済みます。
なぜなら、人格攻撃は誰にも許されない行為だから。
銭湯の中で争い合う人はいないでしょう。
一度裸になってしまえば、そこには善も悪も存在しません。
自分の存在に自信が持てなくなったのなら、衣服を全て脱がせて(自己分析)、真っ裸の一人の人間にしてあげるのがいいと思います。
特に、普段から考え過ぎてしまうような人たちは、自分に自信を持ちにくいです。
なので、感覚ではなく、理屈として、自分を認めてあげる必要があります。
というところで、今回は以上。
なぜか、自分の文章に懐かしさを覚えるなあ…。
それでは、また。