未熟者の哲学語り

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職業:大学生、趣味:哲学。そんな男のはけ口のブログ。

哲学的諸問題15個に意識低い系大学生が持論を展開する【前編】

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どうも、ハイネスです。

 

大学にいると、意識高い系の人々をたびたび目にします。

 

意識高い系というと、大体は講義中にノートパソコンを開いて何かやってます。

 

講義中にパソコンで何かしてても、割と普通みたいな風潮が私の大学にはあるんです。

 

でも、あれって結構教授に対して失礼だと思うんですよ。

 

だって、教授に対して「お前の講義聞いてないから」って言ってるようなものですから。

 

スマホいじるのなら、講義についての調べものしてるかもしれないし、まだ理解できる。

 

でもパソコンはダメだろ!

 

あんな大きいもの机の上に置いたら、ノート置く場所もうないだろ。

 

仮にそれを実現させたとしても、そんなに広げてたら隣の人の迷惑だから。

 

大学に何しに来てるんだよ!

 

…とまあ、講義中にスマホでネットサーフィンしてる私が言っても説得力ないんですが。

 

本題に戻ります。

 

15個の哲学的テーマに対して、大学生である私の考えを書き連ねていこうと思います。

 

テーマ選定は大論争! 哲学バトルという本から行いました。

 

↓この記事で簡単に書籍の紹介をしています。

【書評】『大論争!哲学バトル』 考え方の基礎を培ってくれる本 - 未熟者の哲学語り

 

よかったら読んでみて下さい。

 

というわけで、それでは持論を述べていきたいと思います。

 

 

 

 

1.格差はどこまで許されるのか?

まず、そもそも格差自体は悪ではないですよね。経済的な格差を考えてみても、この世界には様々な仕事があって、それぞれでその形態に沿ってお金を手に入れているわけで、そこには必ず差が生まれてしまいますから。

 

不公平な格差 

許されない格差っていうのは、不公平な格差です。つまり、下の階級の人たちの価値が過小評価されて、上の階級の人たちに搾取される状態です。

 

「自分より仕事のできない上司が、大した仕事もせず自分より高い給料をもらっている」

こんな理不尽に耐えられますか?使えない上司に命令されたら、表面上ではペコペコするしかなくても、内心では反骨心がメラメラと燃え盛っているはずです。

 

こういう不平等な格差がのさばっている共同体はそれを改善しなければ、遅かれ早かれ自然と崩壊に向かっていくと思います。

 

公平な格差 

次に、逆の公平な格差はどうでしょうか。この公平さが保たれているのであれば、格差はいくらあってもいいと私は思います。

 

「一番足の速いやつがクラスの人気者になる」

「頭のいいやつが偏差値の高い高校に合格する」

こういう格差は、とても健全な格差で、なくてはならない格差なはずです。積み上げた努力や持って生まれた才能により生じる格差はあるべきなのです。

 

そうした格差が生まれるからこそ、人は努力し自分を磨こうと思えるのではないでしょうか。

 

2.殺人は絶対悪なのか?

 まず初めに、私の考えだと殺人は絶対悪ではないと思います。

 

つまり、ある特定の条件下であれば、「やむを得ない殺人」もあるということです。

 

ただ、この「やむを得ない殺人」というのにはある程度厳しい条件が必要です。私が考えるその条件は、その時代の大衆が「それはやっても仕方がない」と思うことです。ほとんどの人がしょうがないと思えるのであれば、その殺人には少しながらも正当性があるのではないでしょうか。

 

例として、本でも紹介されていた「ミニョネット号事件」を取り上げてみます。

 

生き残るための殺人「ミニョネット号事件」

1884年7月5日、イギリスからオーストラリアに向けて航行していたヨット、ミニョネット号(Mignonette)は、喜望峰から離れた公海上で難破した。船長、船員二人、給仕の少年の合計四人の乗組員は救命艇で脱出に成功したが、食料が完全に底をついたため、船長は給仕のリチャード・パーカー(17歳)を殺害、死体を残った三人の食料にして生還した。

 

引用:大論争! 哲学バトル

 

この事件をまとめると、4人全員が死ぬのを避けるために1人の命を犠牲にしたという話になります。

 

きちんとした議論をし全員の同意を得て、公平な選択によりこの1人の犠牲が決まったとするならば、これは「選択として、あり」だと思った人は多いのではないでしょうか。

 

もしこの残りの3人が生きて国に帰ることができたならば、それからは連日ニュース番組でこの「生き残るための殺人」が正当なのかどうかの議論が行われるでしょう。そこでも、これを正当だと判断する司会者やレポーターが少なからず出てくると思います。

 

そう考えると、この事件に関して、法的な罰を受けるのはもちろんですが、人々からの批判といった社会的な罰は発生するんですかね?

 

社会的な罰がある=悪という価値観を持つ私にとっては、この選択を悪だと思うことはできないかもしれません。

 

3.少年法は厳罰化すべきか?

犯罪者に対する刑罰の目的は次の三種類だと思います。

  • 犯罪の抑止
  • 被害者とその親族の復讐心の充足
  • 加害者の更生

 

少年法では、この中の「加害者の更生」という部分にスポットライトを当てています。これは、教育の不十分さや、自分でお金を稼げないことなどを理由に、少年(少女)に対する罰則は成人よりも軽くなるということです。

 

確かに、生きてきた年数もまだ短い少年と成熟した成人を同列にして、罰を与えるのは酷かもしれません。その後のサポートも、手厚いものである必要があります。

 

しかし、少年だからといって、刑罰が成人より軽くなることはあってはならないでしょう。それでは被害者やその親族は満足しません。被害者側からすれば、相手の置かれている状況なんて関係ありませんから。犯した“罪”自体に怒りを覚えているわけですよ。

 

そういうわけで、詳しい事情は知りませんが、とりあえず少年法の厳罰化に私は賛成です。

 

 

4.人間の本質は善なのか悪なのか?

日本人の中には、人間の本質は善であると考える人が多いのではないでしょうか。日本だと、物を落とせば誰かが拾ってくれるし、肩がぶつかればお互いに謝りますから。

 

実際、私も日本人は善か悪かと聞かれれば、善だと答えると思います。人に対して優しく接し、他人の気持ちを考えて行動することができる国民性を有していて素晴らしと思うからです。

 

人間の本質は善か悪か 

ただ、人間の“本質”が善か悪かと問われれば、話しは変わってきます。どこの国のどの人種であるかに関わらず、人間の本質は悪であると私は思います。つまり、性悪説を信じているということです。

 

これは、「教育(洗脳)を受けてない赤子は悪童になる」と言い換えることができるかもしれません。

 

まあ、人間の本質が悪だと言っても、それほどおかしいことではないと思います。

 

例えば、盗みをするのは一般的には悪と認識されいます。ただ一方で、盗みはとても合理的な行為だと判断することもできます。だって、自分で苦労して何かを生み出すより、人のものを奪った方が100倍楽ですから。

 

このように、自分のことだけを考えれば、おおよそ悪だとされる行為は正しいことになるでしょう。効率化(合理化)を求める人間という生き物の本質が悪なのは当然のことなのです。

 

人間の矯正具(悪→善)とは 

私は人間の“本質”はだと思います。ただ、現在の世界にいる大多数の人間はだと思います。このように、人間を悪から善へと正しく矯正しているものは何なのか。それは、ずばり教育法律です。

 

人は幼いころから親に「良いことと悪いこと」の区別を教育されます。良いことをしたら褒められ、悪いことをしたら叱られる。そういった、ある種の洗脳を受けることで、「良いことをしたら気分がよくなり、悪いことをすると罪悪感を抱く」という回路を頭に埋め込まれるのです。それがなければ、自然と善の気持ちが沸き上がるということもないはずです。

 

そして、そうした教育を受け続けた後でも、人間は道を踏み外してしまいそうになる時があります。それを防ぐためにあるのが法律です。悪いことに対する恐怖を目に見えるかたちで設定することで、人間を善の方向へ導いてくれます。

 

こういった矯正具があって初めて、人間は善になれるのでしょう。

 

5.戦争は絶対悪なのか?

戦争が悪かどうかの判断は難しいですが、少なくとも戦争に進んで参加したいと思う人はほとんどいないはずです。誰だって自分が死ぬのは嫌ですし、他人が苦しむ顔だって見たくありませんから。

 

しかし、実際の歴史を振り返ってみると、残酷なことに戦争は世界中で幾度となく発生しています。戦争が絶対悪という風潮が漂う現在でさえ、紛争がやまない地域が確かに存在しています。

 

こういった現状から、戦争は国家が存続するために必要不可欠なものであると誤認されていると予測できます。誰もやりたくないけど、生き残るためにやるしかない。そういった強迫観念のようなものが、今もなお残り続けてしまっているのでしょう。最近では、北朝鮮の暴走を見ていると、それをひしひしと感じます。

 

まとめ 

やはり、多くの人が苦しむことになる戦争は絶対悪と言っていいと思います。

 

戦争を求めようとする国家が現れた際には、地球上の人々総出で止めなければいけないでしょう。

 

6.グローバリズムと愛国心、どっちが大事?

グローバリズムと愛国心、言い換えれば、世界国家のどちらを大事にするかという話です。

 

世界単位 

まず、人が全世界でくくられるとき、つまりグローバリゼーションが叫ばれる状態を考えます。世界中の人間が一緒くたにされるのだから、扱う問題の規模はかなりでかくなります。例を挙げるとすると、地球温暖化対策難民救済などでしょうか。こういった問題は、一部の地域の人だけで扱うのは難しく、全世界の人々が協力して取り組まないと解決できません。そうした経緯で、グローバル化は避けて通れないものなのかもしれません。

 

しかし一方、最近ではSNSが発達した影響で、少しでも変わったことがあれば、どんな些細な事でも一瞬で世界中に拡散されるようになってしまいました。こうした情報の共有化により、国々の価値観や体制の違いが浮き彫りになっていきました。自国にとっては当たり前なことでも、他国にとっては非常識だという事も日常茶飯事です。こうした現実を突きつけられている状況で、本当にグローバリゼーションなどと言っていられるのでしょうか。

 

国単位 

次は、国という単位で考えてみます。

まず前提として、人は誰しも「」というものに縛られています。自国を離れれば、出身はどこかと必ず尋ねられるでしょう。出身国がない人はいませんから。生まれながらにして、否応なしに国という縛りを架せられるわけです。

 

では、国家とその国民との関係はどこまで深いものなのでしょうか。

 

例えば、オリンピックに出場する選手たちは「日本のためにがんばります」とか「日本人として負けるわけにはいきません」とかよく言いますよね。でも、彼らは最初は、ある分野で一番になりたいという理由で、自分のためだけに励んでいたと思うんですよ。でもそこから、“日本代表”に選ばれたとたんに、日本を背負う覚悟に変わってしまったのだと思います。そして、その代表が金メダルなんか取った日には、テレビやネットですごいすごいとお祭り騒ぎになるでしょう。国でくくられた瞬間から、その選手はもはやその国自身になってしまったと言っても過言ではないかもしれません。

 

また次の例として、国際的な犯罪者が日本から排出されてしまったらどうなるでしょう。日本国民からは、「なにやってんだよ」「この恥さらしッ」と罵られるのではないでしょうか。他国の人々に対して、自分たちはこの犯罪者とは関係ないことを示そうとするのではないでしょうか。自国に悪い印象が付きそうになると、それを切り離そうとする傾向があるように感じます。

 

そして、最後の例として、慰安婦問題を挙げてみます。簡単に書くと、次のような内容です。

「慰安婦問題」

韓国が日本に対して、「アジア各地から20万人の女性を慰安婦として強制連行し、本人の意志に反して『性奴隷』にした。」ことを認めさせ、謝罪や賠償を求めた問題。

引用:慰安婦問題とは? わかりやすく簡単に解説

この問題については、証拠がないとか、実は朝日新聞のねつ造だとか言われてますが、問題はそこではありません。問題は、自国の先人たちの行いの責任を、今の人々がどれだけ負わなければいけないかということです。

 

今の両国の主張をまとめると大体こんな感じになっていると思います。

日本・・・もう韓国への謝罪は済んでいる。

韓国・・・いやいや、まだ全然足りないよ。てか、そんなのいつした?

 

はい、本当に平行線ですね。いち日本国民からしてみると、正直全然ピンときません。確かに過去に悪いことをしたのなら謝罪やらなんやらするべきでしょう。でも、昔の人が何をやったとか言われても、今の自分たちと繋がっているとは私はなかなか思えません。まあ、逆の立場だったら少なからず嫌な気持ちはするでしょうが。

 

まとめ 

現状、国という単位で見てみると、かなり自分勝手な行動が目立つ気がします。それは、自国の優位になることばかりを進めたり、他国を蹴落とそうとする傾向のことです。それぞれの国が競い合うことで実はすべてが丸く収まる、なんて楽観視はもはやできないように思います。

 

つまり、もっとグローバリゼーションを進めていかなければいけないということです。

 

 

7.人類の歴史を動かすものは何なのか?

人類の歴史には何かしらの法則性があるのか?それとも、個人の主観的な生き方によって様々に変わりうるものなのか?

 

私は、歴史には法則性があると思います。なぜなら、原因があって初めて結果がでるという因果律が存在しているからです。「敵に攻められたから他の地へ逃げ出した」「王様が抑圧的すぎるから革命を起こした」というように、何かしらの原因があってそれを解決するという過程で歴史が動いていくわけで、歴史に法則性があると思うのは至極当然のことではないでしょうか。

 

仮に、ありえないほど個性的な人物がある時代に存在し、歴史を動かすようなことをしようとしても、それが他の多数の人々に賛同されるされるものでなければ、歴史を動かすことはできないでしょう。もし、そういった少数意見から歴史を動かしたいなら、その提案がちょっとした反論では打ち崩せないようなただ一つの真実である必要があると思います。でも、それが本当にただ一つの真実であるならば、やはりそれもまた歴史がある法則に則って動いていることになるのではないでしょうか。