未熟者の哲学語り

知識ゼロだが「哲学」で幸せになるわ

人、作品、自己啓発についての考察記事を書いていきます。ただし、メインコンテンツは筆者の「自己肯定論」です。

【考察】なぜ愚かな人は"善"と"偽善"を分けようとしてしまうのか?

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皆さんは普段、「偽善」「偽善者」といった言葉を軽々しく使いすぎています!

 

偽善とは、正確にはどういう意味なのか?

偽善と善は、どういう条件で分けられるのか?

 

そこら辺のとこを今一度考えてから、「偽善」という言葉を使ってほしいです。

 

 

 

全ての人助けは"偽善"に過ぎない

まず初めに簡単な思考実験をしてみましょう。

 

あなたは道端で死にそうな人がいたら助けますか?

 

通りかかった人はほとんど助けようとするのかな、どうだろう。

 

でも、大事な会議があって急いでいたりしたら、もしかしたら他人任せで助けないで放置する人もいたりして…

 

まあ言っても所詮は他人ですから、もし勘違いだったりしたら嫌ですし極力関わらないようにする人もいるかもしれませんねえ。

 

 

そもそも、なぜ私たちは道端で死にそうにしている他人を助けなければいけないのでしょうか?

 

もし無視して立ち去ったらどうなるのか…

助かるはずの命を見殺しにした罪悪感と知り合いに見られることによる社会的地位の喪失の2つが大きな問題になるでしょう。

 

 

結局、人助けを行わずに逃げた際に待ち受けているのは自分への罰のみです。

人助けなんてものは所詮、自分の自尊心とキャリアを守るために行う自己防衛の行動でしかないことがよく分かります。

 

人は、無視しても自分の評判が落ちない程度の問題ならそんな問題は見えないふりして無視するし、自分の評価に直結すると判断したら興味が無くても進んで人を助けようとします。

 

"善"とは現実から目を背けることである

人には、幼い頃から植え付けられてきた道徳意識というものが存在する。

その習慣によって生み出されてきた道徳意識によって、人は何が善で何が悪なのか判断します。

 

"習慣によって生み出された善(道徳意識)"というのはつまり、何も知らない幼少期に親や教師、メディアなどから植え付けられた不確かで曖昧な概念です。

私たち人間は「善だ」「善だ」と確信めいたように言っていますが、その実本人たちは何も考えず自分の持つ固定観念に従っているにすぎません。

 

自分または他人のことを"善"だと盲信している人は、その"善"が本当に善なのかと考えることを放棄している人です。

「善意の行動は自己のための行動である」という事実から目を背けた人間のみが、善という概念を理解することができます。

 

そこから、"善"とは現実から目を背けることだということが分かります。

 

例による証明

ここで、一つの例を挙げてみましょう。

 

ある有名人が被災地に支援金を送るという例です。

 

さて、この行為は善でしょうか?

それとも、偽善でしょうか?

 

であると考えるなら、「この有名人は心から良心に従って被災された方々のために尽くしたいという意思をもっているのだな」と考えるでしょう。

 

偽善であると考えるなら、「この有名人は被災にあやかって好感度を上げようとして本心から助けようなどとは思っていない」と考えるでしょう。

 

ここで、善と偽善の違いに着目します。

善であろうとするならば「不確かなはずの道徳意識を行動の指針になるくらい盲信する」ことと「良心からの行動に付きまとう利益を全く認識しない」ことが必要になります。

 

つまり、こんな簡単な例からも分かるように、

皆さんが思う"善"になるには盲信×無視というダブルパンチの現実逃避が必要なのです。

 

しかも、「支援金を送ることによる好感度上昇などの利点を認識しない」ことなんて意識してできることではありませんからね。

か~なり能天気な人でないと善にはなれないとは……あー、恐ろしい

 

"くだらない善"を偽善だと認識する方法とは?

一つ思考の高みへと昇るためにも、人は全ての"善だと思われてるモノ"を偽善だと認識するべきです。

 

ということで、"くだらない善"を偽善だと認識する方法をいくつか紹介していきたいと思います。

 

思考力を高める

あのですね、そもそも思考が深ければ善なんてものを認識できるはずがないんですよ。

「この行動の真意は何なのか」とか「本質的な行動による結果」とか色々と考えていれば、自ずと"善"が善でないことに気づけるはずなんです。

 

この思考力が高い人が善を認識するのでありえるのは、「その行為は本人にとって明らかに善ではないが"多くの人が共通して持つ善という一つの概念"というものは確かに存在して、多くの人がそれが善だと騙されているのであればそれはもはや間違っていようと善なのではないか」というパターンです。

 

「善じゃないけど一周回って善だよね」というこの考え方を私は"回帰善"と呼んでいます。

 

この回帰善はまあ結局は皆さんが思う善のことを言っているのですが、この回帰善に行き着くまでの思考の過程が極めて重要だと私は思っています。

「えー、ごちゃごちゃ言ってるけど善は善だろwww」とか思考停止で言って草生やしている奴を私は許しません。

 

他人を信じない

一般の人で多いのはこのパターンですかね。

 

一時的な気分の落ち込みや対人関係での失敗の積み重ねにより、他人を信じることができなくなってしまっている人たちです。

こうなると必然的に"善"を偽善だと思い始めるようになります。

 

 

まあ、思考停止で他人を崇めるくらいなら他人を信じられなくなって多少はいいんじゃないでしょうか。

 

 

 

 

思考の高みへと昇るにはまず"考える"というファーストステップが必要ですからね。

 

それでは。